李韓永殺害は、金正男の指示を受けた李昌善が指揮
「脱北、ロイヤル・ファミリー最側近」が送った情報
23年前だった。香港から北朝鮮工作員に拉致され、南浦港に到着した映画俳優崔銀姫氏は、厳しい秋の風が吹きまくる船着場において、2人の男性の間に立って、写真を撮った。彼らは、崔氏を出迎えようと、南浦港まで出てきた北朝鮮金正日の随行員だった。崔銀姫氏の右側には、中背の太った男性が、左側には、背の高い痩せ型の男性が立った。背の低い男性は、「李ワンギ」という名前の北朝鮮調査部部長であり、左側は、カン・ヘリョンという名前の調査部副部長だった。写真は、1978年1月22日午後3時に撮影された。
北側で撮り、崔銀姫氏に記念に贈られたこの写真は、崔銀姫・申相玉氏が書いた「祖国はあの空、その彼方」という本を通して公開された。この写真を入手した韓国情報機関は、「李ワンギ」が北朝鮮対外連絡部長李昌善の仮名であることを知らされた。対外連絡部は、間諜南派、テロ、要人暗殺及び拉致専門の対南工作部署である。李昌善は、北朝鮮において、対南事業の英雄で通じる「ハルモニ工作員」チョン・ギョンヒの後を継ぎ、1976年に対外連絡部責任者となった人である。韓国情報機関は、崔銀姫氏拉致事件が金正日の直接指示を受けた北朝鮮対外連絡部が実践に移し、企画・実務責任者が李昌善だという結論だった。最近、月刊朝鮮は、「脱北した北朝鮮ロイヤル・ファミリーの最側近」という者が中国を経由して送ったファクシミリを受け取った。ファクシミリ発信地は、北京に位置した有名ホテルだった。A4用紙5枚分量のこのファクシミリには、金正日の3人の妻成恵琳、金英淑、高英姫の最近の近況と金正日自身の近況、そして李韓永氏殺害事件の内幕が書かれていた。李韓永氏は、金正日の前妻成恵琳の姉成恵琅氏の子供で、1982年、韓国に帰順したが、1997年、北朝鮮工作員により殺害された。
■李昌善は、金日成-金正日-金正男3代に渡る忠僕
ファクシミリには、金正日が子息を勉強させるために購入したスイス別荘の住所を始め、北朝鮮最高権力層内部の動向が書かれていた。名前と職責も具体的に書かれていた。今までほとんど公開されていない内容だった。金正日の女性関係は、北朝鮮でも最高機密として取り扱われ、一般人は、その内容を知ることができない。
このファクシミリを対北情報機関関係者に見せ、内容の真偽可否を訊ねた。関係者は、「90%以上が事実と見られる。特に、一般人では、接近が不可能な北朝鮮軍部の情報機関責任者の名前が正確に書かれている」とし、「金正日周辺の18mmでなければ、知ることができない内容である」と評価した。
内容の中で最も衝撃的なのは、李韓永(40)氏殺害事件が金正日の息子の金正男(30)の指示で、中央党社会文化部部長李昌善により実行されたという題目である。殺害を支持した金正男は、金正日と成恵琳の子供であり、殺害された李韓永氏は、金正男の母の姉の子供である。この提報が事実ならば、結局、李韓永氏殺害事件は、義理の弟が義理の兄を殺した形である。
金正男の指示を受け、これを実行に移した「社会文化部部長李昌善」は、23年前、金正日の指示を受け、映画俳優崔銀姫氏拉致を実行したその人である。情報機関の関係者は、「李昌善は、1925年11月25日、全南順天で生まれた。20歳で金日成の護衛兵となり、その後、対南テロ専門家として活動した。今も、金正日の厚い信任を受けている」と語った。李昌善は、金日成-金正日-金正男3代に渡る忠僕であった。
ファクシミリには、李韓永氏殺害事件の顛末がこのように記録されている。
金正日の甥である李韓永が手記「大同江ロイヤル・ファミリー、ソウル潜行14年」を発行したとき、金正男は、自分の海外チャンネルを利用して、金正日よりも先に本を入手したという。金正男は、その後、人民武力部文化連絡室(北朝鮮軍部内の対南工作部署)チャン・ボンリム将軍と会い、李韓永を除去しろという指示を与えた。金正男は、「李韓永を殺せなければ、そのウ・チョンチャンという記者でも、殺してしまえ」という指示を与えたという」。
それを見れば、金正男は、ビルマのラングーン・テロを指示していた金正日を全く同様に連想させる。その後、チャン・ボンリムが金正男の「命令」を執行できない状況に至るや、金正男は、父に内緒で同じ指示を中央党社会文化部李昌善に与え、結果、社会文化部において、「雛将軍様」(金正日の子供の金正男に対する北朝鮮内部の呼称)の命令を「執行」したのである」。
「雛将軍様」の命令を執行できなかったチャン・ボンリムは、金正男が人民軍保衛司令部(韓国の機務司のような軍内の情報機関で、金正日の最高独裁手段。北朝鮮では、恐怖の代名詞と呼ばれている。)金ジャンソン副司令官に指示して、間諜嫌疑で逮捕、粛清してしまったという説もある。
■テロ犯が外交使節に変身
李韓永氏は、1997年2月15日夜、アパートの大学の先輩の家に入ったが、怪漢が撃った拳銃2発を頭と胸に受け、殺害された。犯人は、逮捕されなかった。殺害事件7ヵ月後である1997年10月27日、安企部が夫婦間諜崔ジョンナム(35)、カン・ヨンジョン(28、逮捕後服毒自殺)を逮捕し、李韓永氏を殺害した怪漢は、南派された北朝鮮工作員であることが確認された。安企部は、1997年11月20日、夫婦間諜事件発表において、「南派間諜崔ジョンナムを調査した結果、李韓永氏狙撃死亡事件は、北朝鮮社会文化部所属テロ専門要員である「崔スノ」等、2名の特殊工作組が事件発生1ヶ月前に南派され、引き起こした事件と明らかになり、彼らは、北朝鮮に帰還した後、英雄称号を受けた」と明らかにした。
夫婦間諜事件は、1997年の大統領選挙直前に発表され、北朝鮮工作員が李韓永氏を殺害したという内容は、大きく報道されなかった。韓国情報機関の資料によれば、李韓永氏殺害を指揮した李昌善は、金日成勲章を2度も受けた対南工作と協商の専門家だった。彼は、1960年に北朝鮮文化省宣伝局長となり、1961年、党中央委宣伝煽動部副部長を担当した。1973年の南北連絡代表会議時、北側代表団の一員であり、1979年には、北側の民族統一準備委員会代表の資格で、南北接触に任じたという。
李昌善は、崔銀姫・申相玉氏脱出事件が発生した1986年5月、文化芸術部部長職から更迭されたが、失脚したのではないと、情報機関関係者が語った。李昌善は、金日成死亡時、国家葬儀委員に姿を現し、1995年2月、呉振宇人民武力部長死亡時にも、国家葬儀委員を担当した。70歳になった1995年、李昌善は、再度社会文化部部長を担当し、社会文化部が対外連絡部に改称された1997年8月まで、対南工作を担当した。李韓永氏殺害事件は、この期間中に起こった。
社会文化部は、間諜を特殊教育する「招待所」を運営する。大韓航空858機爆破事件を起こした金賢姫も、招待所出身である。社会文化部傘下機関には、▲文化芸術部、▲峰火政治大学、▲南韓地域担当課、▲南韓社会指導階層担当課、▲海外担当課等があるものと把握されている。社会文化部は、労働党秘書局対南事業担当秘書の指揮を受ける。対南担当秘書が北朝鮮の対南工作責任者である。金大中大統領が金正日と南北頂上会談を行ったとき、陪席していた金容淳が現在対南担当秘書を担当している。対南担当秘書は、社会文化部を始め、国家安全保衛部、統一戦線部、人民武力部等を指揮する。祖平統と呼ばれる北朝鮮の祖国統一平和委員会は、統一戦線部傘下の対南工作機関であり、統一戦線部傘下には、▲南北会談課、▲南朝鮮研究所、▲万景峰92号等があるものと知られている。国家安全保衛部傘下には、米国・中国・ロシアを対象にする海外反探局と南朝鮮担当局、そして盗聴局等があるという。韓国情報機関は、李昌善の動静を鋭意注視している。社会文化部長から退いた李昌善は、1998年2月12日、金正日誕生56歳を記念する中央研究討論会に参席したと、北朝鮮の朝鮮中央放送が報道した。朝鮮中央放送の報道によれば、李昌善は、1999年9月9日、「朝鮮勤労者代表団」団長として中国を訪問、9月19日、平壌に到着し、2000年5月4日にも同じ職責で中国を訪問した。李昌善は、世界を驚愕させた崔銀姫氏拉致事件と李韓永氏殺害事件を主導したテロ犯である。のみならず、彼は、ドイツ僑胞呉吉男氏一家の越北を主導したものと、韓国情報機関は、把握している。情報機関関係者は、「呉吉男氏の密封教育を李昌善が担当した」と語った。このようなテロ犯李昌善が今は北朝鮮勤労者代表という「外交使節」に変身、中国を舞台に活動しているのである。
■殺害動機として作用した「大同江ロイヤル・ファミリー、ソウル潜行14年」
金正日の子供金正男が李昌善に李韓永氏殺害を指示させた決定的動機として作用したのは、「大同江ロイヤル・ファミリー、ソウル潜行14年」という本である。この本には、喜び組を始めとする金正日の紊乱な私生活が書かれて、暴露されている。
この本が出た後、李氏は、本記者に「金正日と関連した部分は、なるべく語らないようにしたが、出版社から要求され、その部分が多く入った。金正日委員長が見れば、非常に気分を悪くするだろう。報復が怖い」と語り、不安そうだった。金日成父子に対する非難は、北朝鮮社会の最高の禁忌事項である。韓国社会に潜んでいる親北勢力も、正体を偽装するため、北朝鮮社会や、北朝鮮体制を批判
することはあるが、どんな場合でも、金日成父子の名前を誹謗して、罵ることはない。記者は、ドイツで知識人の様に偽装して活動する北朝鮮工作員とドイツで会ったことがあるが、彼らもやはり、北朝鮮体制は、批判しても、金日成父子に対しては、罵らなかった。
「大同江ロイヤル・ファミリー、ソウル潜行14年」は、1996年6月7日、東亜日報から出版された。その8ヵ月後、李韓永氏は、殺害された。この本の著者は、李韓永氏とされているが、東亜日報出版部長であった金大坤が代筆した。金氏は、東亜日報を退職して、今は、青瓦台公報主席室において、国内言論担当秘書官である。
金氏は、「李韓永氏が国内で慌しく死ぬ位行動したり、恨みを買ったことがないため、彼が狙撃された直後から、北朝鮮の所行であると疑われた」とし、「北朝鮮の金正日が本の内容に憤怒して、李氏を死に追いやったのは常識」と語った。殺害指示者に対して、金氏は、「金正日は、北朝鮮の最高統治者であるが、そのような位置にある者が自身の親戚筋である李氏を殺害しろと、直接指示したのは、納得するのが難しい」と語った。金正日と関連した内容は、東亜日報側から要請したという李韓永氏の主張に対して、金氏は、「韓国に来て聞いたことよりは、北朝鮮で直接経験したことだけを話しように要求したことはあるが、金正日部分のみを強調したことはない」と語った。
■「小さな金正日」と呼ばれる金正男
殺害を指示した金正男は、1971年生まれである。この金正男に対して、「脱北した北朝鮮ロイヤル・ファミリーの最側近」という者は、前記のファクシミリにおいて、このように書いた。
「金正男氏は、韓国言論に紹介されたものとは多少異なる点もあるが、幼年時代に対する証言は、西側に脱出した成恵琅氏の証言が正確である。帰順者カン・ミョンド氏(北朝鮮総理カン・ソンサンの息子と知られる人物)の自叙伝「北朝鮮は亡命を夢見る」に書かれたように、(金正男が)平壌高麗ホテルで銃器狼藉を起こしたのは、事実と合っていない。しかし、(金正男の)性質が金委員長(金正日)にそっくりで、腹が立てば、拳銃を良く撃つのは事実である」。
「金正男氏は、現在、平壌15号官邸に夫人と子供と一緒に暮らしている。病気説、アルコール中毒説、成恵琳西側脱出報道以後の粛清説は、事実と無関係である。金正男氏は、父である金正日にコンピュータを扱うように勧める等、コンピュータとインターネットに通じ、北朝鮮権力層と軍部少壮派からの信望が高く、実際に後継者論まで取り上げられているが、高英姫(金正日の3番目の妻)勢力の抵抗も強くなく、権力争いの犠牲者ともなり得るというのが、側近の見解である。金正男氏は、成恵琅氏が最近、韓国月刊誌「女性中央」とのインタビューで明らかにしたように、フランス語、英語、ロシア語等、3ヶ国語を自由に話し、趣味は、狩猟、射撃、旅行である。韓国インターネットに、昨年、金正男氏が美貌の女性と一緒に、ヨーロッパ等の地を旅行した事実があることは、事実である。韓国情報当局は、北朝鮮金正日委員長の家族に対して、比較的正確な情報を得ているようである」。
「金正男は、金委員長の公式夫人が疑いない高英姫(47)氏の制圧があっても、北朝鮮要職にある一部最高位層及び軍部核心人物との人脈が良いことから、実際、「小さな金正日」と呼ばれている。北朝鮮高位エリートの中で、金正男は、「雛将軍様」と呼ばれ、金正男の周辺では、「雛秘書室」と呼ばれている。金正日総秘書の書記室(韓国の秘書室のようなもの)が、現在、北朝鮮を左右する権力の核心であると窺われ、金正男と彼の周辺勢力もやはり、無視できない意味において始められた言葉である。金正男は、自分の母の西側脱出報道があった後、神経が非常に不安だったという。彼が第1に苦心したのが、父との関係だったということである。しかし、金正日は、金正男に「私にだけ忠実であれば、問題ない」という一言で、正男の神経を宥めてやったという」。
■平壌高麗ホテルで会った金正男
脱北者ユ○○氏は、北朝鮮にいたとき、金正男を側で目撃した人物である。ユ氏は、1998年まで北朝鮮の外貨稼ぎ機関である「38号室」傘下の「○○資材課」で勤務した。「38号室」は、金正日の秘資金を管理する「39号室」傘下機関として、外貨商店と外国人専用ホテルを運営し、松茸、蜂蜜、蟹等、北朝鮮産土産物を海外に輸出するところだと、ユ氏は語った。
ユ氏は、1995年春、平壌高麗ホテルの喫茶店で金正男を目撃した。夜9時頃だという。高麗ホテルには、1階と地下に喫茶店が各々1ヵ所ずつあるが、金正男は、1階の喫茶店に老人と一緒に座っていたという。
「私は、金正男と背を向けて、喫茶店に座っていた。金正男は、50歳を超えた男性と向かい合って座っていた。初めは、金正男とは分からなかった。ところが、金正男が年上に「そうか?」、「その後老体は、全く気の毒だった」と、一言話す毎に、何者なのか知りたくなった。私よりも早熟に見え、良く食べ、肉付きが良く、在日僑胞だと思った。喫茶店服務員に、「あの若者が誰なのか、私に話してくれ」訊ねてみた。服務員は、気難しく語りながら、「先生様の息子」と語った。「先生様の息子」は、北朝鮮の若者の間で通用する金正男に対する隠語である。「将軍様の息子」ならば、そのまま身分が明らかになるので、「先生様の息子」と呼ばれた」。
「金正男は、頭をしっかりと上げ、短く刈り、洋服姿だった。背や体型は、金正日とそっくりだった。父に似て、金正男も、頭の周りを刈っていた。私のように大学を出た北朝鮮の若者は、金正男が父金正日の言葉も聞かない子息と知られている。金正男は、学校に通わず、教授を官邸に呼んで、個人教習を受けたという。金正男は、酒も良く飲み、狼藉が酷い人間として、北朝鮮社会に知られている」。
−金正男は、高麗ホテルにしばしば現れているのですか。
「私はその時初めて見たが、服務員の話では、良く来るということだった」。
−金正男が酒に酔って、高麗ホテルのナイトクラブで拳銃を撃ち、狼藉を起こしたことがあったのでは。
「狼藉が酷いことは聞いたが、拳銃事件は、見聞きしませんでした。一度は、金正男が女友達と会うために、勝手に国境を越えて、中国に行ったことがあるという話は聞きました」。
−金正男が金正日の後継者になるのでしょうか。
「金正日は、金日成の後光を何しろ多く受けているので、後継者が可能です。北朝鮮人が余りに馬鹿でも、金正男が金正日の後継者になるのは難しいものと見られる」。
−金正男が権力を持っているのですか。
「国家保衛部内の実力者だと聞いています。国家保衛部に捕まった者がいたが、その家族が金正男に上手く話して、釈放されたという話を聞いたことがあります」。
本社がオーストラリアにあり、平壌に支社を置いているある企業体の幹部は、金正男の高麗ホテル銃器事件に対して、このように語った。
「平壌支社職員から聞いた話である。1993年頃だが、高麗ホテル地下のディスコで酒を飲んでいた金正男が突然拳銃を持ち出し、天井に向けて発射したということである。人々は傷つかなかったという。高麗ホテルに投宿中だった外国人が銃声にびっくりして、騒動が起きたのだろう。人々が出て来るや、金正男は、乗用車に乗って消えた。彼が乗っていた乗用車に「赤い星板」が付いていたと、
目撃者が話した。「赤い星板」は、将軍が乗る車である。金正男は、父金正日に似て、銃を良く操り、射撃術も優れているという」。
■北京にある金正男の「海外チャンネル」
金正男は、李韓永氏の本「大同江ロイヤル・ファミリー、ソウル潜行14年」を自身の「海外チャンネル」を利用して、金正日より先に購入したものとされている。中国北京に居住するある事業家は、金正男の「海外チャンネル」と関連して、このように語った。
「金正男の友人という北朝鮮人が1996年に北京に事務室を出した。40代と推定されるこの友人という者は、数回北京に来ている。北朝鮮から骨董品を持って来て、売ることもあり、北朝鮮で組み立てたコンピュータを日本に送ることもある。大層な金持ちである。この友人という者によれば、金正男は、コンピュータの専門家である。金正男が日本に行って、コンピュータの勉強をしたという話も聞いた」。
情報機関関係者は、「金正男の最側近という者が北京、上海、マカオ等の地に数回出ている」とし、「金正男の友人が運営する北京の事務室が金正男の海外チャンネル本拠地と推定される」と語った。
西側に脱出した成恵琅氏は、2000年12月26日に出版した「藤の家」という本において、金正男に対して、このように語った。「あれこれ、秘密露出を厳禁だとして、正男は、垣根の外の世間と徹底して隔離された状態で1人の友人もなく、交際から生まれる喜びを知らずに、奇形的に育てられました。正男には、行くところがありませんでした。合法的に(金正日を怒らせずに)行けるところは、病院しかありませんでした。麺類も、家に受け入れたものだけ、食べることができました」。
「政治に忙しかった彼の父(金正日)は、子供を放任し、教育をさせませんでした。彼は、無制限な権限と好事の中で、母の愛も、心配も、その誰の干渉もなく、本能のままに成長しました。彼の長所に属するもの、他人には良く対してやりたいという善心、人情深い彼の生れ付きの性格、血統に属すると見ます。彼を悪い人間に見せる過激さ、気難しさは、後天的性格だと、私は見ました。無制限な権力、非教育、母の不在、その社会の権威主義が作った性格です。このように相反する性格は、彼を推し量るのが難しい難解な気質と表現されることもあります。正男が声まで父にそっくりで、彼の堪忍袋の緒が切れる声は、私の父の怒鳴り声のようでした」。
1942年生まれの金正日は、今年、還暦である。彼は、30代に金日成により、後継者に見られてから今まで、北朝鮮を統治している。還暦を迎える金正日としては、自身の後継者を考えなければならない時のようである。
国内において、金正日後継問題を最初に取り上げた者は、安企部3次長厳翼駿(故人)氏である。厳次長は、2年前、外信特派員との歓談会において、「金正男が国家保衛司令部に勤務し、後継者修行を受けている」と語った。情報機関のある関係者は、「金正男の職責に対して、北朝鮮が公式に発表したことはない。我々は、金正男の階級が「名誉将領(将軍)」であり、金正日が息子を軍指導者に育てているものと推定される」と語った。各種情報を総合してみれば、金正男は、母の愛を受けておらず、閉鎖的な環境で育ち、全てを自分を主に考え、父金正日に似て、即効的で、急な性格の所有者と推定される。そのため、義理の兄を殺すという常識外れの指示も下すことができるものと見られる。
■李韓永氏殺害現場踏査
李韓永氏殺害事件が発生したとき、記者は、対共捜査官と一緒に、現場を精密に調査した。この事件は、記者の立場から「他人事」ではないためである。1982年、韓国に帰順し、14年間、身分が露出されなかった李氏の存在を最初に公開し、李氏とモスクワに暮らしていた李氏の母成恵琅氏との国際電話を取り持ったのが本記者だったためである。14年目に行われたこの電話が契機となり、成恵琅氏は、1996年1月、西側に脱出した。金正日の息子金正男が李韓永氏殺害指示を下したとき、「李韓永を殺せなければ、李ジョンチャンという記者でも殺してしまえ」と、本記者の名前を挙げたということも、このような関係のためである。
李韓永氏殺害事件発生と前後して、記者にも異常な注意があった。殺害事件発生数日前から、誰かが記者の家に電話をかけ、何も言わないまま、数分間、受話器を聞いていることが継続した。怪電話は、必ず午後7時正確にかかってきた。妻から異常な電話がきたという連絡を受け、記者は、午後7時に問題の怪電話を直接受けた。「もしもし」、「話して下さい」を何度も反復したが、相手側の息をする音だけが、電話機の中から聞こえてくるだけだった。このような状態が5分以上継続した。相手側は、何も話さずに、継続して電話機を聞いていた。
そのような中、李韓永氏殺害事件が発生した。安企部に怪電話の事実を知らせたが、「警察官を送ってやることはできるが、相手が北朝鮮工作員の場合、身辺の安全が難しい」とし、「当分の間、全家族と一緒に、家を離れるのが良いだろう」と語り、注意したこともある。李韓永氏が殺害されたアパートは、アパート団地内で最も外郭に位置し、アパートの後ろは、京釜高速道路とそのまま連結されていた。殺害して、現場を抜け出すのが、非常に容易だった。殺害現場は、14階建てアパートの最上階で、居住する者の外には、出入者がない閑寂なところだった。このアパートは、エレベータの両側に2つの家が向かい合う構造で、階段に通じるところに門が設置されている点が特徴であり、廊下の電燈は、センサーが設置され、人が入れば付き、人がいなくなれば消えていた。階段に通じる門を開いて出て行けば、屋上に上る梯子が置いてあった。梯子を上って、明かりもなく暗いところに、ボイラー用管が入っていた。数名は、広々と潜むことができる空間だった。ところが、捜査機関では、この空間に対して、調査を行っていなかった。初動捜査が粗く行われたことを直感した。
李韓永氏は、エレベータから降り、アパートの呼び鈴を押す瞬間、階段に通じる門の後ろに潜み、待機中だった北朝鮮工作員2名から奇襲を受けた。北朝鮮工作員は、李氏に向けて銃3発を撃った。しかし、警察は、現場で発見された薬莢2個を根拠に、2発を撃ったと発表した。銃弾2発を受けた頭と胸に打ち込まれた状態で発見された。残りの銃弾1発は、後に、李氏が着ていたジャンパー内で発見された。この銃弾は、北朝鮮工作員が最初に撃ったもので、李氏が着ていた厚い空軍パイロット・ジャンパーのジッパーに当たり、ジャンパーの中に入っていたものである。李氏が暮らしていたアパートの反対側に暮らしていた住民は、事件当時、「外で騒々しい声が聞こえ、ビデオ・フォンで外を見たが、怪漢1名は、李氏を掴まえ、別の1名が李氏に銃を撃った」と語った。同行した対共捜査官は、現場状況と目撃者の証言を土台に、狙撃当時をこのように推定した。
「門の後ろに潜んでいた北朝鮮工作員が門を開いて、出て来るや、李氏がその方を見たのだろう。北朝鮮工作員は、李氏の心臓を狙い、1発を撃ったが、ジッパーに当たった。工作員が所持した拳銃は、22口径で、近い距離でなければ、殺傷力が落ちる。驚いた李氏が反抗するや、工作員が飛び掛り、抵抗できないようにする過程で、騒乱が起こったものと見られる。最初の攻撃に失敗した北朝鮮工作員は、拳銃を李氏の頭と胸にぴったり付けて、発射したものと見られる。そして、階段を通って、地下駐車場降りるや、待機していた車に乗って、高速道路を通って、抜け出したものと見られる」。
■「私の息子の悔しい死を誰が訴えてやるのか」
記者は、対共捜査官と一緒に、14階から地下1階の駐車場まで駆け下りて、測ってみた。57秒だった。たとえ、アパート警備員が連絡を受けたとしても、14階まで上がる前に脱出が可能だった。
李氏の前の家に住んでいた者がビデオ・フォンから廊下の外で起こった殺害場面を見守ったという陳述は、捜査において重要な意味を有する。ビデオ・フォン内に殺害場面が録画されているかも知れないためである。このアパートは、現代建設で建てたため、ビデオ・フォンは、現代電子製品である可能性が高い。現代電子にビデオ・フォンを通した録画と再生の可能性を訊ねてみた。
彼は、「アパートに設置されるビデオ・フォンには、マイクロ・チップが入っているが、このマイクロ・チップに画像が録画される。問題は、マイクロ・チップが入っているビデオ・フォンを設置すれば、別途に金を出さなければならない点である。マイクロ・チップが設置されたビデオ・フォンならば、我々の技術で画面を再生することができる。当事者が同意して、我々の技術陣が取ってくれば、できる」と語った。記者は、この事実を捜査機関に知らせ、ビデオ・フォンの調査を頼んだ。上手くいけば、李氏を殺害した北朝鮮工作員の顔を確保することができる。捜査機関は、記者の要請を受け入れなかった。ビデオ・フォンを調査したという話は、聞けなかった。
李韓永氏殺害事件に対する我が政府の捜査は、消極的であり、北朝鮮を刺激する発表は、可及的ではなかった。
李韓永氏の母成恵琅氏は、「藤の家」という本において、息子の李韓永氏殺害事件は、「今も未解明」とし、「哀れな私の息子の悔しい死を私が訴えてやらなければ、誰がするのでしょう」と書いた。成恵琅氏は、この本において、自身とソウルで暮らしていた息子との間の国際電話を取り持った本記者を非難した。
「分別を忘れる位に、貧しかった私の息子を唆して、電話をかけさせ、それを録音し、「スクープの名声」を狙った商業主義言論が座り込んで、かけさせた電話ということを私は知らなかった。このとき、私の息子に電話をかけさせ、監聴した録音テープが憚ることなく韓国日刊紙に公開されたのを私は、かなり後になって知らされた。監聴内容を売り、「スクープ」の名声を狙った記者がいるとすれば、その後ろで私の息子は、道徳的に敗北し、14年目に死ぬことになった息子と私の「私達だけの言葉」、母と子の情は、無残に陵辱された。本当に、こうもなるものなのか!」
■李韓永氏と初めて会う。
1人しかいない息子を亡くした成恵琅氏の心情を分からなくもないが、商業目的で記事を書かなかった点は、明らかにしたい。記者は、1995年10月初め、朝鮮日報社を尋ねて来た李韓永氏と初めて会った。金正日の前妻成恵琳の兄成イルギ氏がソウルに住んでいることを知り、「金正日の義理の兄、ソウルに住んでいる」という記事を書いたことが因縁となった。初対面の李氏は、ソウルに住む成恵琅氏の兄の成イルギ氏の娘と同行した。このようにして、記者は、李氏の身分を信じることができた。李氏が記者を尋ねて来たのは、急に金500万ウォンが必要なためだった。1週間以内に、この金を工面できなければ、李氏は、刑事処罰を受けることになった。ソウルに来て以来、李氏が暮らしてきた日々が余りに胸を打ち、記者は、500万ウォンを作ってやった。そのとき、記者は、李氏に「金は返さなくても良い。代わりに、叔母(成恵琳)が暮らしているモスクワのアパートの住所と電話番号を教えてくれ」と頼んだ。当時、記者は、モスクワに居住していた前北朝鮮文化相許真(故人)氏から、「成恵琳氏の兄がモスクワに住んでいるので、南と北ではない第3国記者とインタビューを行う用意がある」という話をソンギュングァン大李命英(故人)教授を通して聞いていた。成恵琳氏のインタビューを推進している状況において、李韓永氏が登場するや、彼に住所を訊ねたのである。李氏が知っている住所は、14年前のことで、成恵琳氏が今もそこに暮らしている保障がないためだった。
■息子に向けた母の愛
そして、その席で、「失敗して元々」という考えで、モスクワに国際電話をかけることにしたのである。ところが、驚いたことに、李氏の母成恵琅氏が電話を受けたのである。14年目の電話通話で、南にいる息子と北にいた母が互いを疑う難しい過程を経て、互いの存在を確認したとき、その横にいた記者も涙が流れた。息子と母の通話は、それ自体がスクープ記事だったが、記者は、これを記事化しなかった。その当時、記者が記者として欲を出した部分は、金正日の前妻成恵琳氏の肉声を捉えることだった。世界的な独裁者金正日の妻の声は、世界的なスクープとなり得た。しかし、彼女の姉成恵琅氏と息子の間の通話は、その内容がいくら断腸の思いがしても、記事の比重において弱かった。更に重要なのは、そのときまで、李氏の身分は、公開できない点だった。記事欲にいくら目が眩んだ記者だとしても、公開する場合、個人の身辺の安全と直結する事案は、非公開が原則であり、やむを得ず公開する場合には、徹底して匿名で処理するのが、記者の倫理でもある。李氏は、継続して、記者の事務室に来て、モスクワと国際電話をかけた。その過程で、母成恵琅氏から、西側に脱出するという言葉を聞かされた。この弾みに、状況が180度変わった。北朝鮮を嫌い、西側に来るというならば、どうしても助けてやりたかった。それで、記者は、安企部にモスクワとの通話の事実を知らせ、どうすれば良いかを商議した。当時、安企部は、李氏問題で頭を痛めており、論議すること自体を拒絶した。しかし、息子と母の間の通話内容の録音を聞き出した後、助けてやると語った。成恵琅氏は、本において、「私が脱北しようとするのを韓国当局に伝えれば、生きる道が塞がった私の息子の面倒を見てやる考えでした」とし、脱北は、「意図的」に流された言葉だと主張した。しかし、その通話を横で聞き、録音していた記者は、脱北発言が決して意図的だと考えない。ソウルで事業に失敗し、家もなく流れ歩く息子に向けた母の声は、悲嘆に暮れたものを吐き出したようであり、その声は、息子への愛が込められていた。
その弾みに、ソウルからは、成恵琅氏の兄成イルギ氏と安企部関係者がモスクワを訪問、成氏から脱北の意思を最終確認し、脱北日時は、成氏の意思に従い定められたのである。李韓永氏がモスクワの母と初めて通話した1995年10月初めから、成恵琅氏がモスクワを脱出した1996年1月5日までの3ヶ月間、記者は、一行の記事も書かなかった。モスクワを脱出した成恵琅氏一行の身辺が安全だということを確認した後である1996年2月13日に初めて、「金正日前妻成恵琳一行西側脱出」という記事が報道されたのである。「脱北した北朝鮮ロイヤル・ファミリー最側近」という者が送ったファックスによれば、金正日の前妻成恵琳氏は、現在、ロシア、モスクワ郊外のある安家に泊まり、病身の治療を継続しているという。
慶南昌寧の成氏一族で大地主の娘として生まれた成恵琳氏は、父親の成有慶氏が越北して、従って行った。北朝鮮で映画俳優として名前を上げていた成恵琳は、越北作家李キヨンの子供と結婚したが、金正日の目に止まり、夫と離婚し、金正日と一緒に暮らした。
成恵琅は、その本において、妹成恵琳と金正日の夫婦生活をこのように描写した。「成恵琳は、外では内気でも、家では笑い声を良くするひょうきん者でした。物真似を良くするのは、その娘の最も大きな特技でした。演出科を卒業した恵琳は、単純な俳優ではなく、映画専門家でした」。
「映画が好きだった彼(金正日)には、恵琳の専門家的見解は、知識となり、彼の映画指導を内助しました。映画という媒体がなければ、彼らは、会うこともなく、好きになることもありませんでした。成恵琳が美しさ1つで彼に選択されたのではありません」。成恵琳は、金正日との間に金正男を産んだが、金日成から結婚を認定されず、憂鬱症にかかった。金正男を産んで、数年も経たずに、夫の金正日が別の女性を迎えるや、成恵琳は、不眠症、神経衰弱症、不安発作等、更に酷い憂鬱症にかかり、1974年からモスクワに行き、病気治療を行って暮らした。成恵琅氏がモスクワを脱出したとき、成恵琳もスイスまで同行したが、モスクワに戻った。成恵琅氏は、本において、妹成恵琳を置いて、自分1人でモスクワを脱出したと主張したが、成恵琳がスイスまで同行した事実は、モスクワを訪れていた安企部職員が脱出した成氏一家の所在を把握するために、金正日のスイス別荘に国際電話をかけ、成恵琳と通話して確認された。その後、成恵琳の行方は、分からなくなった。
■金正日と一緒に暮らす高英姫
第3国から送られた前記のファックスによれば、金正日の最初の夫人は、成恵琳(63)であり、2番目が金英淑(50)、3番目は、高英姫(47)という。韓国社会で金正日の公式夫人と知られていた金英淑は、2人の娘と共に、北朝鮮護衛司令部の招待所で暮らしているという。拉致された映画俳優崔銀姫氏は、北朝鮮で金英淑と会ったことがあるというが、成恵琅氏は、本において、「崔銀姫氏が会った人は、金英淑ではなく、成恵琳」であると主張した。その題目を引用すればこのようである。
「崔銀姫が紹介された東平壌の「官邸の妻」、「我が家の者は、何も知らない・・・」とは、成恵琳でした。意図的に崔銀姫が間違ったのかも知れないが、その家で、正男と彼のその母を描写しながら、彼女は、何故、正男の母を金英淑と判断したのでしょうか?」
「「私を助けて下さい。先生、私を帰してください」恵琳の寝室でひざまずき、彼女は、哀願しました。勿論、酔って寝室に連れて行かれたときです。後から入ってきた主人金慶姫(金正日の妹)が「崔先生、落ち着いて下さい。ここがどれだけ先生に暮らしやすい世の中か?」と云々し、体制の優越性を宣伝するや、彼女は、酔ったことに託け、慶姫の尻を叩きながら、「喧しい。出て行け」と自尊を誇示しました。恵琳を見たソウル人は、崔銀姫1人です」。
北朝鮮上層部において、金正日の公式夫人と認定され、金正日と一緒に暮らしている女性は、高英姫である。背が高く、「バンチコ」という別名を持っている高英姫は、金正日との間に金正哲(18)、金ジョンウン(16)、金イルスン(12)等、2男1女を産んだ。彼らは、金正日の長子金正男の腹違いの弟である。高英姫は、江原道元山、黄海道信川、平安北道昌城、両江道三池淵、咸南道咸興等の地に官邸を持っているという。
ファックスによれば、高英姫は、2000年12月26日、病気治療のため、高麗航空所属の金正日の専用機便で北京に到着、その日、スイス航空を利用して、ジュネーブに行ったという。高英姫は、長い間、肝疾患と乳線腫瘍の治療を受けたという。
■英国、フランス旅券を偽造
前記ファックスによれば、高英姫の3子息は、スイス、ベルンに留学中であり、休暇時毎に、北朝鮮から送った特別航空機便で平壌を来往しているということである。スイス駐在北朝鮮大使で、金正日の最側近である李チョル(本名:李スヨン、69)大使が同行したという。スイス、ベルン国際学校に在学中である金正哲は、数年前、日本の産経新聞のカメラに姿を撮られた。この事件後、彼らは、ベルンから4.5q離れたリバフィールドというところの超豪華2階建てのビルに引越ししたという。この別荘は、ジュネーブ駐在北朝鮮代表部外交官であるチョン・イルソン(仮名、42)所有とされているが、チョン・イルソンは、高英姫の妹とという。
高英姫を始めとする金正日の家族及び親戚は、英国旅券、フランス旅券、ブラジル旅券等で、第3国に出入するが、ブラジル旅券は、1980年代、北欧において麻薬密売で物議を醸し出した北朝鮮対外連絡部工作員金ヒョング(仮名)がブラジル投資移民形式で発給され、英国とフランス旅券は、偽造旅券であると、このファクシミリを送った者は主張した。金正日の次男金正哲は、米プロ・バスケ(NBA)のファンだという。金正日は、金正哲のために、全国至る所の招待所毎にバスケ場を建ててやり、平壌新安体育館と呼ばれる北朝鮮幹部専用体育館を改造して、バスケ場に改築した。金正哲の影響で、金正日もバスケに関心が大きいと、北京からきたこのファックスは伝えた。
殺害された李韓永氏は、京畿道広州郡五浦面広州公園墓地に葬られた。李氏の妻は、1人娘を育て、苦労して暮らしている。李氏が殺害された後、韓国政府は、この母子を無視した。李韓永氏の家族は、「李氏が北朝鮮工作員により殺害された点を勘案し、李氏の妻と娘に国家有功者の恵沢を与えてやれば良いという感じ」と語った。第3国に住んでいる李氏の母成恵琅氏は、1年前にソンギュングァン大李命英教授を通して、「孫娘を見たい」という意思を伝えてきたが、実現しなかった。
最終更新日:2004/03/19